人生論とは大げさな言い方、私は日常論の方が当てはまると思います。ビッグピクチャーの人生論も大事ですが、毎日どう世界や人と接するかということはさらに重要な事だと思います。人生論・世界論があっても日常論なしでは何の意味もありません。また人生論なしでは日常論もありえないと私は考えます。
例えば、水を流しっぱなしにしないということは日常論です。水代が高いからや、夏の水不足のためではありません。私は若い頃からヨットで旅してきました。ヨットの旅ではそのヨットに積んであるものだけで生活することになります。勿論積める水も電気も食料も限りがあります。真水は制限され、飲み水も、皿を洗う水も、体を洗う水もどう節約(大事にする)して使うか、コツはこういう環境にいるとすぐ身に付きます。それがくせになり陸にいる時でも自然と気になってしまいます(意識的にではなく無意識にそうなります)。自分の分の水だけが足りなくなるわけではでありません、一緒に乗っている皆もそうです。ヨットの場合は4~5人ですが、家にいると10人、ビルにいると何十人、町にいると何百人。そして、動物達、植物達も…。そういう環境に置かれると日常論は自然と身に付くもので、子供の教育はもちろん、大人の教育にもとても良い経験だと思います。面白い話があります。ヨットのシンクに熱いお湯を流すなと昔おそわりました。熱でパイプが溶けるなどの理由だったのでしょうが、日本人の主人と初めてパスタを作った時、驚いたことにヨットに乗ったことのない主人がお湯と一緒に水を流しました。「どうして?」と聞いたら、母から台所のシンクなどに住んでいる神様が怒ると子供の時におそわった習慣が根強くて、不思議なことに日常の生活の中にはそういうエピソードがたくさんありました。やはり繋がっている! これが知恵だと!
国境を超えて、人と生き物と地球と宇宙と神々は繋がっているという事を感じました。八百万の神が住まう日本であったからかもしれませんが、、
その響きは大倉さんと話す時にも感じられます。単なるバイク乗りで上手な演奏をするだけの人ではない!古代から人類が宇宙や自然と共にあり、その証に古代から伝えられてきた祭事、そのひとつとしての芸能の精神。現代社会ではそれが崩れてしまいました。古代より受継がれてきた精神も失われつつ、揺るがされていると思います。宗教、無信教、新宗教、スピリチュアルの孤独さを感じられる現代、向かい合うべきは、まず、人ではないかと、そしてその中でも自分自身だと思います。
精進(しょうじん)すると良く口にする大倉さん、そのことだけに心を集中して努力すること!なんとなく無信教の私に重要なキーワードを与えてくれました!精進する、欲を捨てるとも解釈できます。私は集中すると解釈しました。様々な雑用・雑念に追われ、大事なものを見失いがちな日常で、周りから意識を独立させる訓練でもあります。気になると気にする! それはいやな思い、人へのいやな気を放つことにもなります。精進し、己自身を見つめた時、回りもまた見えてくるものかもしれません。
最近読んだ大好きなSFの若手作家[ sentinelles de la nuit ](ナイト・ウォッチ/夜番)の発想が面白かったので、簡単に説明します:人間がだれもが魔法のパワーを持っています。知らないうちにそのパワーを使っています。人を睨む、悪く思うなどするとその人の精神(頭の上)に黒い渦ができます。様々な敵・恨みを引きずっている人の渦は深い黒で大きくどんどん押されるようになってしまいます。このイメージはあまりにも分かりやすくて地下鉄に乗っている時、ふっと人の頭の上をぼ~と見ようとしている私がいます。また、人の感情は物に移る、物には思いが宿るとも日本では表現されますね。

目次
調べ
調べ(2):バイクお兄さん
調べ(3):考え方
調べ(4):大鼓との出会い


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